本業はバイオリニストですが、毒舌キャラとしてお茶の間の人気を集めバライティーに引っ張りだこの高嶋ちさ子(たかしま ちさこ)さん。
なぜバイオリニストになったのでしょうか?
高嶋ちさ子のプロフィール
名前 | 高嶋ちさ子(たかしま ちさこ) |
誕生日 | 1968年8月24日 |
年齢 | 55歳(2024年8月15日時点) |
血液型 | A型 |
身長 | 158cm |
出身 | 東京都渋谷区 |
所属事務所 | 株式会社シンバ |
家族構成 | 父、母、姉、兄、高嶋さん |
最近では、高嶋ちさ子さんだけでなくお父さんの高嶋弘之さんやお姉さんの高嶋未知子さんも一緒にバライティーに出演したりしてますね。
他にも、高嶋ちさ子さん自らバイオリニストの方をプロデュースしたりバライティ以外にも活躍しているので、本業がバイオリニストという事を忘れてしまいそうになるぐらいです。
高嶋ちさ子の生い立ち
それでは高嶋ちさ子さんの生い立ちを取り上げていきましょう!
高嶋ちさ子の両親
高嶋ちさ子さんの父親は高嶋弘之さんです。
高嶋の父・弘之さんは音楽ディレクター・プロデューサーとして活躍し、日本にビートルズを呼んだ仕掛け人として知られている。
引用:Yahoo!ニュース
そして高嶋ちさ子さんのお母さんは高嶋薫子さんです。ピアニストでした。
高嶋ちさ子さんのお姉さんはダウン症です。その為か普通の家庭とは違う育てられ方をしてきました。
私には6つ年上のダウン症の姉・未知子がいて、両親は「この娘を守るために」、1つ年上の兄・太郎と私を産んだんです。幼い頃から「私たちが死んだ後、未知子の面倒はあんたと太郎で見るのよ」と言われて育ったので、そういうものかと納得していました
引用:婦人公論.jp
幼い頃から当たり前のようにお姉さんを支えてきたんでしょうね。
ご両親は高嶋ちさ子さんに対してかなり厳しかったそうでインタビューでご自身の家族の事をこのように語っています。
わが家はなんというか、「気の抜けない家」でした
普通外で気が抜けなくて家はリラックスするための場所ですが、高嶋ちさ子さんにとっては違ったみたいですね。
私は勉強が全然できなかったんですが、ストレートに「バカ」「ダメな子だ」と言われ続けました。たまに家族以外の人に「かわいいね」と褒められても、「あなたに人間としての魅力がないから外見を褒めただけだ」と諭されて。
引用:婦人公論.jp
また何をしても褒められなかった為、高嶋ちさ子さんは「褒められなくても面白くしたら注目してもらえる!」と考える様になりました。
その努力も虚しくうるさいと思われてしまい、家族旅行に高嶋ちさ子さん抜きで行ってしまいました。
しかもその旅行の様子を撮ったビデオカメラの映像を高嶋ちさ子さんの前で見ていたそうです。
ただこのようなことがあっても高嶋ちさ子さんはインタビューで「今となってはこのような教育のおかげで強くなれた」と語っています。
高嶋ちさ子の幼少期
高嶋ちさ子さんの保育園や幼稚園の情報はありませんでした。
子役モデル時代
高嶋ちさ子さんは4歳ごろ子役モデルをしていました。
母親に勧められてしていたのですが、高嶋ちさ子さんは嫌で仕方なかったそうです。
歌手の錦野旦とグアムに行ってゴルフカートで笑うというCM撮影があった。ところが4歳の高嶋は「面白くもないのに笑えるかよ!」と言い放ち、周囲をあ然とさせたという。その後も周囲のフォローがあったにもかかわらずムスっとしたままだったため、「そのまま帰された。強制送還」と衝撃のブチ切れ事件を明らかにした。
引用:スポニチ
さすが高嶋ちさ子さんですね!
この頃から物事をはっきり言う方だったんでしょうね。
高嶋ちさ子の小学校時代
高嶋ちさ子さんの小学校は、
東京都青山学院初等部
でした。
インタビューで青山学院初等部のエピソードをお話ししてくれたので間違い無いです。
-青山学院初等部のころの渋谷での一番の思い出は?
もう本当にやんちゃだったので…電車で騒ぎ過ぎて東急から苦情が来たこともあります。「新玉川線に乗っている人は全員集合」と言われて、「何月何日に騒いでただろ」って。つり革で懸垂したり、本当悪いことばっかりしていましたね。誰よりも先に席を取りたいから、電車が渋谷に入ったとたんに開いている窓からかばんを投げ入れて座席取ったりとか…。
引用:渋谷文化
高嶋ちさ子さんは小学校では、上記のエピソードもそうですがやんちゃという枠を越したやばい子だったそうです。
自分のことを「俺様」と呼んでおり、男勝りでした。
ただその行動にも意味がありました。
高嶋ちさ子さんのお姉さん、未知子さんは小学校は普通学級に通っていました。その時、ダウン症だった為か壮絶ないじめに遭いました。
電車に乗って指をさされたり、心ない言葉をかけられたこともあるそう。その度に、相手を殴ったり言い返したりしていました。
引用:NEWSポストセブン
両親からの教育もあってか、お姉さん思いなんですね!
高嶋ちさ子さんは小学生の時からバイオリンを始めました。
母の影響で4歳からピアノを始めるも、わずか2ヵ月で母から「才能がない」と言われ、やめさせられてしまう。その後、反対する母を説得し、小学1年生からヴァイオリンを始める。念願かない始めたヴァイオリンだったが、全てのレッスンに立ち会い、子供を相手に熱血指導を行う母によって、それは地獄に変わってしまう。
引用:フジテレビ
なぜお母さんはバイオリンを習う高嶋ちさ子さんに厳しかったのか。
それはやはりダウン症のお姉さんの存在があったためだったと言います。
お姉さんの面倒を高嶋ちさこさんが見るために自活してほしい。というお母さんの考えがありました。
高嶋ちさ子さんが人間界で唯一恐れている人
高嶋ちさ子さんが恐れているその人物は超大物バイオリニスト、クラシック界の重鎮である徳永二男先生です。
小学生時代「学校では全員が子分。先生も子分みたいに感じていた。自分が世界一偉いと勘違いしていた」高嶋だったが、徳永先生に会った瞬間「先生のオーラ、迫力に圧倒された。弟子入りしてこのパワーを受け継ぎたいと思った」のだという。
引用:スポーツ報知
結果的に高嶋ちさ子さんは小学校5年生から大学までの12年間師事していました。
高嶋ちさ子さんとお兄さんの出来事
高嶋ちさ子さんが小学3年生の時、兄弟で遊んでいた時に兄から「お兄ちゃんから『跳べ!』と言われて」タンスからダイブしました。
しかしお兄さんはそれだけでは飽き足らずさらに「回転しながら跳べ」と言われました。高嶋ちさ子さんは言われるがまま2回転しながら跳ぶが、着地に失敗して背中を打ち、息ができなくなってしましました。
高嶋ちさ子さんの様子を見ていたお兄さんが助けてくれ、大丈夫でした。その優しさに高嶋ちさ子さんは感激していましたが、お兄さんは「もう一回(タンスの上に)行ってこい」と言ったそうです。
その出来事を家族に報告した際、両親は兄を叱るどころか「へ〜」と反応しただけだったそうです。
このエピソードだけ聞くと、怖いですね。
高嶋ちさ子の中学時代
高嶋ちさ子さんの中学校は
東京都青山学院中等部
でした。Wikipediaに載っていたので間違いありません。
中学生の頃には、プロのバイオリニストになる事を決めていて徳永二男の母校である桐朋学園に入りたい一心で猛練習していました。1日8〜10時間ほどバイオリンの練習をしていたそうです。
小学校から性格は変わらず、男子生徒から怖がられる存在でした。
高嶋ちさ子さんの高校時代
高嶋ちさ子さんの高校は
桐朋女子高等学校 音楽科
でした。Wikipediaに載っていたので間違いありません。
無事に入学することができた高嶋ちさ子さんでしたが、入学することが目標だったため目標を見失ってしまいさらに周りにはレベルの高い人ばかり。さすがの高嶋ちさ子さんも「優秀な生徒たちが集結する中、自分は教室の端っこで小さくなっていた」と告白しました。
さらにはこのようなこともあったという。
夏休み、高嶋は音楽家を目指す学生の合宿に参加し、朝から晩までバイオリン漬けの日々を送っていたが、最終日のコンサートの後達成感からか感極まって号泣してしまったという
引用:一周回って知らない話
みんなから恐れられていた高嶋ちさ子さんも号泣するほど大変だったのでしょうか。
また高校生の頃、午後7時までという門限がありました。
「ディズニーランドに行ってもエレクトリカルパレードを見られなかった」と打ち明けた。しかも、「それ以上に(遅く)なると迎えに来る。どこにでも。7時に」と、7時になったとたんに親の迎えが来ていたほど束縛されていたという
引用:スポニチ
ただ距離があり7時に帰れなかった時は「“ここ“に7時に迎えにきて」と言うとOKだったそうで、必ずしも7時に家に帰らなければいけないというわけではなかったそうです。
他にも親との厳しいルールがありました。それは「親が顔を知らない友達とは、男女問わず出掛けてはいけない」というものでした。
「うちに迎えに来させて、男の子だったりすると、ちゃんと親にあいさつしてから出掛けて」と、面通しが義務づけられていたことを明かした。お茶や映画程度のデートでも、相手には必ず高嶋家に来るよう伝えられていたという。
引用:スポニチ
さらには挨拶が終わった後、家族会議まで開かれるといいます。
高嶋ちさ子の大学・大学院時代
高嶋ちさ子さんの大学は、
桐朋学園大学 音楽部
に内部進学しました。
大学卒業後は
イェール大学 音楽学部 大学院
に進学しました。大学も大学院もWikipediaに載っていたので間違いありません。
イェール大学 音楽学部 大学院は、世界最高峰の教育機関です。1人で知らない土地での生活が3年間ありました。
「(最初は)てくてく歩きで学校に通って。(それから)黄色い自転車で通ってたんだけど、3年目は3000ドルで車を買って。1年間乗って、最後には5000ドルで売った。いい商売だったな(笑)」
引用:smart FLASH
なかなかたくましく生活していたみたいですね。
他にも、
「しかも親のカードをずっと持っててさ。お金がないとそのカードを使って皆でご飯を食べに行って、皆から現金を徴収する。だからご飯を食べに行くとすごい儲かる」
引用:smart FLASH
ただ月末になると、アメックスの請求書が実家から『ガー』(FAXで)って送られてきて、『いったいいくら使えば気が済むんだ!』と怒られました。しかし高嶋ちさ子さんは謝らずに父親に「この国は、安全はお金で買うんだよ、パパ」と切り返していたと明かしていました。
イェール大学卒業
高嶋ちさ子さんが卒業する時に卒業証書の筒を開いたらなんと空っぽでした。
まずTOEFLを出していませんと。私は一芸入学、音楽学部なんで、バイオリンを弾いて合格だったから、英語は卒業するまでに取ってねって感じだった。それを出していなかった。それプラス、図書館で借りている楽譜を返していなかった。この2点で卒業証書がもらえなかった
引用:スポニチ
という面白いエピソードをお話ししていました。結局卒業証書は、秋に自分の手元に届いたそうです。
高嶋ちさ子の売れなかった時代
大学院を卒業後、マイアミのオーケストラに入団するも、高嶋ちさ子さんが26歳の時に父親が『チョコレート・ファッション』という音楽デュオを勝手に結成したため、日本へ帰国しアイドルユニットとしてデビューしたのです。
しかし、全く売れずにすぐに解散しました。その後も売れないソロ活動を27歳から30歳まで続きました。
路上でバイオリンを演奏したり、借金をしたり何とか生活をしていた時ある人との出会いが高嶋ちさ子さんのその後の人生を一変させました。
恩人との出会い
高嶋ちさ子さんの人生を一変させた人物、それは「高田純二」さんです。
私をこの業界に引きずり込んだ方が、高田純次“大先生”なんですよ」「純次さんにお会いしてなかったら、今の私はない!
引用:マイナビニュース
高田純次さんのゴルフ番組のオープニング曲に高嶋ちさ子さんの演奏している曲を使った事がきっかけで、高田純次さんにお会いして、「事務所ないんだって言ったらウチに来ないか?」と言われたそうです。
結果的に高嶋ちさ子さんは、今現在もテレビで引っ張りだこの存在となりましたね!
まとめ
高嶋ちさ子さんについてまとめました。
- 両親から「自分を産んだのはダウン症のお姉さんの面倒を見てもらうため」という事を伝えられていた
- 4歳ごろ、母親に勧められて子役モデルをしていた。
- 小学生の頃からバイオリンを始めた
- 高嶋ちさ子さんが唯一恐れている人物は徳永二男先生
- 26歳の時に「チョコレート・ファッション」という音楽デュオを結成
- 27歳からソロ活動
- 高嶋ちさ子さんを芸能界の世界に連れ込んだのは高田純一さん
ということが、分かりました。
高嶋ちさ子さんの毒舌っぷりを見ていると逆にスッキリしますね!これからもバイオリンに芸能活動と大変だとは思いますが、頑張って欲しいですね!
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